Tuesday 26 November 2013

どうのこうの

王家衛『一代宗師』(2012、邦題:グランド・マスター)を観た。この監督はトニー・レオンを美しくたくましく撮ってくれるという点で好き(ミーハー!)。なんだかんだ日本語字幕がないとあんまり理解できんくてつらい。この人は表情を撮るのがうまい、っていうこの感想も、わたしの中から出た感想ではなくて、たぶん事前知識からきたもの。

チャン・ツィイーがきれい。とてもきれい。父親であり師匠である人の葬式で、真っ白い雪の道を真っ白い服で真っ白い肌で歩いていく彼女の表情、立ち姿が忘れられん。私が絵に長けてたらキャンバスと筆をとって描き残そうとしただろうな。(頭の中でミスチルのdrawingが流れる)おしろいで塗っててやけに白い肌が不思議と嫌味でなく、葬式シーンだというのにうっとり魅入ってしまう美しさだった。ちょっといつかのPVの椎名林檎に似てた。メロウかな、浴室かな、旬かな…。トニー・レオンはすっかり脇役だ。主役という肩書があるだけ。

戦前から戦中、戦後に渡っての時代の動乱と、それに翻弄される人物を描いている、というのであれば、その点についてしつこいくらい濃厚な『覇王別姫』には明らかに劣るし、これにはこれの良さがあるけれど、人物が「時代」に翻弄されている感は薄い。それよりも、チャン・ツィイー演じる宮若梅という人間の生き方の選択に興味が湧く。父親の仇を討ち、父の跡を継ぐためには、結婚して家を出ることは言語道断。(結婚しなくても恋人くらい作れたろうに、なんて思ってしまうのは的外れなのかしら。)好きな人を選ぶことを諦めてまで仇討と継承にこだわったけど、それでも自分が継承したものを、あとに繋ぐこと、後世に伝承することはできなかった。(これはなにを意味してるんだろ)一方で、トニー・レオン演じる葉問は自身の流派を香港に渡ってから伝承している。宮若梅はつまるところ、ただただ八方ふさがりだったんじゃないのか。自分で自分を追い込んでた。そこまで父親が大事だったのか。映画は彼女をそうさせた理由をどこにも描いてくれていない気がする。ファザコンかこいつ。好きな人も年上だったじゃん!物語が特別すばらしいわけでもなんでもない。そういえば半分伝記なんだっけか、失礼。宮若梅という人物の、理解不能なくらい執着した自分への追い込み様と、それでも拭い去ることのできなかった葉問への想いが、ただただ美しい(ように撮られてる)。気高い執念や理念なんてものは、たいてい、蓋を開けてみればなんの崇高さも、理路整然とした裏づけもなく、無駄に人の人生を左右してしまうものなんだな。

中国映画第六世代のロウ・イエが
「人間を描きたいならセックスを避けることは困難、時代を描くのに人間を避けることもできない」
って言ってた。別に今日観た映画となにが関係あるわけでもないけど思い出した。

図書館でユリイカを読んでいたら日本人っぽい人に「日本人ですか?」って聞かれる。この前も食堂に並んでいたら後ろにいた日本人っぽい人に「日本人ですか?」って聞かれた。聞くのはいいとして、聞くだけでも別にいいけどよ、そっから次ないんかい!いいんです、そんなことよりユリイカの小津安二郎特集、四方田さんの文章がおもしろかったので。小津安二郎実はまともに観たことない。『東京物語』断片だけ。わたしが小津さんを知ったのは台湾映画を通して間接的に、だ。四方田さんいわく、小津は一度たりとも、ありのままの戦後の日本の姿を撮ってはこなかった、カメラに映したくないもの、をことごとく切り捨てて、ノスタルジックな日本を撮ってきた、感じのことを批判的に書いてた。わたし自身は、侯孝賢やら台湾の監督が小津さんの作品のファンで、ことあるごとく彼らの作品の中に小津の作品や手法を引用している、ということぐらいしか知らなかった。てっきり日本でもファンが多いんだと思ってなんとなく読んでいたら、尊敬する四方田氏がバッサリ切ってたからまあそらよく考えたら何事も賛否両論だよねって。小津さんが日中戦争のとき毒ガス部隊の一員だったことも知らなかった。そういう自身の戦争体験への向き合い方、それを経ての映画製作というのがどうのこうの、ってへーへーへーっとなりながら読んでいた。ら、「日本人ですか?」って、あぁ、日本人ですとも。たとえ『東京物語』を最後まできちんと観ても、ノスタルジーが湧くかどうか定かじゃない世代の、日本人です。

夕食は自助餐。はじめての店で。ものすごい人多い中食べたいおかず選ぶのに結構悩んだ。ブロッコリー、青菜、甘めの鶏肉炒め、平べったい玉子やき、マッシュルーム炒め、はじめて行く店では会計の仕方分からんかったらどうしようとか、レジの人の中国語が聞き取りにくかったらどうしよう、とかで、結構どぎまぎする。案の定、レジのおっちゃんなに言うてるかわからん、でもあれは分からんって、あれはあかん。弁当さげて山を上る。構内バスに乗る。ありがとう運転手さん。帰宅する。ただいま、って言うてみる。ただいま、がふと口から出てくるような場所になったのだな、この部屋も。夕飯食べながらまた映画。1983年の『搭錯車』。最近ますます台湾史の時代観がわからない。
もうこのころには国民党批判ともとれる社会問題を主題に取り入れた作品があったのか。わたし見落としてただけか?あーでもニューシネマが1983年には出てくるのか、とか考えていたら眠くなってきた。台湾の社会問題どうこう言う前に自分の帰る社会をどうのこうの言うの忘れんようにすべし。
どうのこうの。眠い。

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