Thursday, 6 February 2014

台中滞在中のこと忘れんようにメモ

台中に来てからのこと、書き留めておきたいことがいろいろとあって、
でも覚えきれてなくて頭の中で整理もできてなくて困ってる。

友人Pさんにはとても感謝。
彼女のお陰で、旧正月をひとりさみしく台北の宿舎で過ごすようなことにならずに済んだ。
その上、おいしいものもたくさんごちそうになって、親切でおもしろくって明るい人たちと一緒に過ごすことができて、自分の気持ちも晴れ晴れしてきたような気がして、とにかく、とてもうれしい。

台中滞在二日目は旧正月の大みそかで、Pさんの実家にお邪魔して家庭料理をごちそうになった。
どれもおいしいものばかりだったけど、Pさんのお母さん手作りの干しタケノコを使った料理がとてもおいしかった。焼き魚も(中国語では「紅焼魚(ホンシャオユー)」)。あと蘿蔔糕だと思ってたけどちょっと違うくて、肉が入ってない台湾式の蘿蔔糕に似たやつもめちゃうまかったし(外の店で売ってるのはだいたい香港式らしい)、お母さん手作りのソースがまた美味。文章力なくておいしさを上手に表現できないから残念。思い出したらまたお腹空いてきたちょっと。お腹いっぱいのはずやのに。

そんでからよる23時前にPさんの実家を出発して近所の廟にお参りにいった。
旧正月の年越しは、23時が区切りらしい。
台湾には「土地公」と呼ばれる廟が各地域にあって、その土地を守ってくれる神様が祀られている。
私たちが着いた頃にはもう何人も人が居て、小さな廟だったけど、その土地の人たちにとっては見過ごすことのない大切な場所なんだなって思った。
あとからあとから近所の人たちがぞろぞろと集まってきて、みんな熱心にお参りをしていた。
私たちも、Pさんのお父さんが買ってくださったお線香で「拜拜(バイバイ=お参り)」をはじめた。
まず一番手前の線香立てるやつ(あれなんて言うんやろ)の前に立って神様に新年の挨拶を始める。
自分の名前と、出身地と、神様に「新年快樂(あけましておめでとう!)」と、日ごろのお礼を言って、今年一年も「平平安安(ピンピンアンアン=平穏に)」に暮らせるようにとお願いする。
そして9本もってる線香のうちの3本を挿して次へ。
続いて奥の神様が座ってるっぽいところの前でまた同じように黙々と心の中でお礼やら新年の祈願やらを唱えて3本の線香をお供えする。
最後はこの廟のそばにある大きな樹の前へ。
これもここにいてる神様の一つだそう。日本の「八百万の神」みたいだなっておもった、長寿の大木を祀る習慣は日本にもあるよね。
そこでも同じようにお参りする。
これで一通りの参拝は終わり、あとは、地元の人たちはそこで出会った近所の人たちとお喋りしたり、新年の挨拶したりしてて、みんなわりとゆっくりしてたけど、私とPさんはそのまま帰宅するためPさんのお家へ引き上げ。
Pさんのお父さんにお礼を言ってお別れしました。

そういえば台湾の人が家とか廟で祀ってるのはだいたい道教の神様だとざっくり思ってたんだけど、Pさんのお父さんがいろいろ説明してくれるのを聞いてたら、道教とはいえいくつか種類があるみたいで、私が家の中の神棚を指さして「道教ですか?」って聞いたら、「道教じゃない」って言ってなんか別の、それも「道」って漢字が入ってた気がするんだけど、道教ではない二文字の単語を紙に書いて見せてくれた。忘れた。

Pさんのバイクの後ろに載せてもらいながら、Pさんの家族と、家族にまつわる台湾の歴史のお話を聞かしてもらった。
Pさんたちは戦前から台湾に住んでる家系のいわゆる本省人一家で、Pさんのおじいさん、おばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさんたちは、日本による植民地支配の台湾に生きていた。
ひいおばあさんたちは、息子であるPさんのおじいさんに、日本語を勉強させることを嫌がっていたけれども、当時の状況としては勉強せざるを得ず、おじいさんは日本に行く機会があって、日本語を習得して台湾に帰ってきたとか。
おじいさんの年代だと生まれたときにはすでに台湾は日本の一部ってことにされてて、国語=日本語であって、日本人/台湾人、内地人/本島人という差別は存在していても、同じように日本語を学びながら育って青年期まで過ごした。
1930年、霧社事件(台湾原住民による日本政府への蜂起事件。原住民部落の小学校で日本人児童を中心とした運動会が開催され、その現場に原住民が襲撃、老若男女問わず殺害した。一方、蜂起した原住民討伐のために日本側は毒ガスを使用し、さらに原住民の部落間の対立を利用するなどし、徹底的な制圧を行った。)が起こった時、Pさんのひいおじいさんたち一家は南投の埔里に住んでいて、その土地や山の事にも詳しかった。
そのため、蜂起を起こした原住民と日本の討伐部隊の攻防戦の最中で、Pさんの一家は討伐部隊に山の道案内をすることになった。つまり、原住民を討伐する側の肩をもった、ということだ。
心なしか、Pさんも言いにくそうな申し訳なさそうな口調だったけど、Pさんはずっと、どうしてひいおじいさんたちが討伐部隊、つまり日本の権力者側に協力したのか、彼らのアイデンティティはどこに根差していたのか、どんなふうになってたのか、知りたかったのだと言う。
でもひいおじいさんは先に亡くなっているし、おじいさんに尋ねる機会もとうとうないまま急逝してしまった。
Pさんとしては、彼らにとっては「日本」が自分たちの「国家」で、純粋に自分たちの国のためである、と思って討伐部隊に協力したんじゃないか、と考えているそう。
でも、文化的な側面で言えば、アイデンティティはもっと複雑だっただろう、みたいなことも。
生れたときにはすでに台湾は日本の一部で、日本語を学び、本島に行ったことがあり、本島での暮らしというものに少なからず憧れを抱いていた人たちにとっては、少なくとも当時は、「日本」は自分たちの国家であり、日本に対する国家的アイデンティティを抱いていたのだとしても、おかしくはないだろう。ただし、そこには見え隠れする矛盾も、おそらく孕んでいる。
Pさん自身、日本に対して特別な憧れがあるのは、おじいさんの影響だろうと言っていた。おじいさんがPさんに話してくれた日本というのは、いつも快適で暮らしやすい、自然の豊かな国だったという。
植民地時代を生きた台湾人が、日本に対するこういうイメージを抱いたり、愛着のようなものがあるのは、Pさんのおじいさんに限ったことではない。
歴史が生み出した、奇妙な、台湾人と日本の関係性だなあと、思う。


そして三日目はPさんと一緒にPさんの親友宅へお邪魔した。
Pさんの親友Cさんは、CさんとCさんの旦那さんと、6歳か7歳になる息子くんの三人家族で、今日はCさんのお母さんにもお会いした。四人でマンションに住んでるのかな?
台湾に来てから何人か台湾人の家にお邪魔したけど、まあ当然なんだけどいろんなおうちがあって、暮らし方とか、収入とかの違いなんかなって思ったけど、今回はこれまたきれいなお宅だった。
一階は駐車場、二階はキッチンと居間、で三階がたぶん寝室なんだろうな。マンションだけどメゾネットっていうのかな、こういう一世帯ごとに二、三階あるやつ。
二日目にお邪魔したPさん宅や、私が宿泊させてもらっていた別の友人のお宅は、路地に並んだ住宅の一角で、一階の手前がリビング、奥にはキッチンがあり、玄関などはなし、正面おおきなガラス戸を開けばすぐ食卓があるようなあけっぴろげの構造だ。シャッターを占めたり網戸をつけたりしない限り、外から食卓の様子は丸見え。こういうの、台湾の一般的なおうちのイメージがある。

描き出したら結構長くなってしまってまとまりがつかない。
結局このあとみんなで有名な逢甲夜市に行って、おいしいものたらふく食べて帰ってきた上に、Cさんがお土産と称して屋台で買ったなにかよくわからないけどおいしいものをくれた。台湾美味しいもの在りすぎて食べまくってしまうし、こんなんだから最近身体の調子がよくないんだよなと反省しながらもやっぱり食べることはやめられない。台中にいる間はだいたい四六時中食べてたな。

またゆっくり来たい。帰国前に来れたらいいな。