Wednesday 18 May 2016

『台湾新電影時代』を観てきたけど、今まで思ってたほど侯孝賢の映画が好きでもないことに気づいた

4月下旬から新宿のK's cinemaで「台湾巨匠傑作選2016」と題して台湾ニューシネマの作品と関連する台湾映画がいくつか上映されている。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と楊德昌(エドワード・ヤン)の作品を中心として、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)、李安(アン・リー)、魏德聖(ウェイ・ダーション)の作品なんかが観れる。勇んで三回券を買ってあったものの、いろいろあって行きそびれていたらもう上映が終わっちゃった作品とかあって残念なのだが、幸い、一番気になっていた『台湾新電影時代』(2014年)を今日、観ることができた。これは台湾ニューシネマと呼ばれる作品群を撮った監督や映画にゆかりのある人たち、あるいはそれらに深い影響を受けた海外の映画人たちにインタビューを行い、台湾ニューシネマ再考の手掛かりにするという内容のドキュメンタリー映画だ。台湾人の謝慶鈴という監督が撮ったもので原題は《光陰的故事─台灣新電影》。インタビューを受けた人物の中には、日本からだと侯孝賢の『珈琲時光』に出演した浅野忠信や、映画監督の黒沢清、是枝裕和がいる。タイ、フランス、中国、香港といった台湾外の人たちから台湾ニューシネマがどのように観られてきたのか、ということが知れておもしろかったが、特に気になった話が一つある。

中国の映画監督王兵と楊超の二人が登場するシーンで、彼らが台湾ニューシネマの作品と、中国の第五世代の監督たちの作品とを対比させながら語っている姿がある。彼らは第五世代として張芸謀と陳凱歌を上げ、特に王兵(の方だったと思う)は陳凱歌の『覇王別姫』と侯孝賢や楊德昌らの作品とを比べて以下のような見方を話していた。曰く、『覇王別姫』は“物語”を描いた作品であって、あの映画には“台詞”しか映されていない、そこには“人”がいない。一方で、台湾ニューシネマの中には他ならぬ“生身の人間”がいると。それに対し楊超が、じゃあ覇王別姫の登場人物である蝶衣や段は人じゃないっていうのか?と半ば食い気味で問いかけつつも、確かにあの作品は歴史主義に偏りすぎている、と言う。そして、これらこそ第五世代の監督たちが直面せざるを得なかった限界である、というような。

『覇王別姫』はわたしが好きな中国映画の一つだ。まだ中国語なんて勉強したことないうちから偶然WOWOWかなんかで観たことがあって、当時、海外の映画=ハリウッド映画だった高校生のわたしの映画観がバッコーンと打ち砕かれたような経験をした覚えがある。何度観ても飽きず、いまだに泣きながら観てる気がする。泣けるから良いって言いたいわけじゃないし、むしろ最近映画とか小説の広告でよくある「これは泣ける!」みたいな謳い文句はむしろ嫌いだし、できれば感情の安売りはしたくないんだが。ともあれ、好きな映画だったし、わたしには登場人物がいつでも“生身の人間”として迫ってくるように思えてたから、王兵の言ってたことってどういうことやねんろ、と気になった。言うまでもないが覇王別姫は歴史ドラマだ。民国政府時代、抗日戦争、国共内戦、中華人民共和国の成立、文化大革命というように、歴史の教科書に出てくる時代区分できれいに切り分けることができるように場面も移り変わる。それが中国という土地の近現代史を主題にしていることが一目で分かる。社会情勢が変わり、京劇とその役者たちも時代の波にあっちゃこっちゃへと流される。たしかに、そう考えたら人物はでっかい歴史を語るための駒のような扱われ方されててかわいそうかも。

6本の指をもって生まれた蝶衣が、母親にその6本目の指を切られて劇団に預けられたことは、後から考えれば彼が女形の役者として生きていく道を選ぶことを象徴的に示すための“去勢”の儀式に思える。でも彼の指を切ったのはあくまで産みの母親の意思であって、そこには自身の力では抗いようのない、生まれながらにして背負わされた「宿命」のようなものがあることを感じさせる。それこそ覇王別姫に登場する人々を逃れようのない結末に向かわせるものの正体であって、その悲哀が観ている者の胸を打ち、時に涙させる。

アヘン絶ちをしようとして発作に苦しんでいる蝶衣を菊仙が抱えてあげるシーンが特に好きである。蝶衣は自分を棄てた母親のことが忘れられないらしく、うわごとで母を呼びながら寒い寒いと言う。それを菊仙が抱きかかえるようにして布団かなんかを巻いてあたたかくしてあげようとする。流産して母親になれなかった菊仙が、まるで母親になったように蝶衣を我が子のようにして抱いている。ずっといがみあっていた二人がこのシーンだけでは互いを求めあっているかのようにも見える。菊仙は女郎上がりなので蝶衣の実の母とも共通点があるし、本来ならこの二人は、自分が必要としながらも欠いているなにかを補いあうことのできる者同士なのでは?この二人実は仲良くなれるのでは?という気持ちになる。でも二人の間には段という男がいて、段をめぐって敵対が続くんだな。

「覇王別姫には台詞しか映されてない」の意味を理解したくて作品をまた観てみたが、ぐいぐい映画の世界にもってかれて、本題を忘れていた。そうなってふと思ったのは、侯孝賢の映画やったらあんまりこうはならへんよな、ってことだった。最新作の『黒衣の刺客』なんて、もはや映像を観ているというより、とことん区切られた細切れの絵か写真かを連続的に観せられているようで、一つ一つの画面を切り取ると、それは絵のように味があっていいのかもしれないんだけど、映画として観るとわたしにはどうしても退屈だった。ドキュメンタリーのインタビューの中でタイの映画監督が、侯孝賢の映画は眠くなるって言ってたけど「ほんまそれやで!」って思ったのは台湾映画好きな人でもわたしだけじゃないはず。そうこう考えていてふと気づくのは、自分が自分で思っている以上に映画に対してドラマ性を求めてるってことだ。だから結局、侯孝賢よりも楊德昌の作品の方が好きなんだよなおれは。芸術性とかじゃなくて好みの話です。楊德昌の『カップルズ』が好きでDVDを手に入れたいとずっと思っているんだが、アマゾンで観ても中古が数万とかで目が飛び出そうになった。今回の台湾映画イベントでも上映作品にも入っておらず残念極まりない。版権の問題とかややこしいことになってるんだろうな…。個人的にはあの映画は張震がみじめに泣く羽目になるところが見どころやと思っています(なんて意地の悪い)。

なんか台湾映画の話するはずやったのにほとんど覇王別姫の話になってるやんな。

あと、細かいことを言うのですが、字幕で「本省人」を「内省人」と間違えていたり(冒頭で詫びられてた)、林懐民のインタビューの中で彼が「郷土文学」と言っていたのを「国民文学」としていたりというのが気になっちゃいました。内省人なんていう凡ミスはともかくとして、限られた文字数の中で台湾にさほど詳しくない観客にも分かりやすく違和感なく観てもらうために字幕を考えるのはめちゃムズカシイことなんだって、最近字幕翻訳の勉強してて日々感じるんだけども、改めて痛感した。「郷土文学」って言われても、台湾文学をかじったことがなければパッとイメージできないだろう、ってことで「国民文学」になったんだろうか。でもむしろ、「国民」って言葉から短絡的にイメージされるものって、郷土文学と呼ばれてる作品の中身からはかなり遠い気がするんだけど。中華民国の文脈への帰属意識から書かれたものではないし、総じて農村の暮らしだったり、低層の人々だったりにスポットを当てて、台湾というふるさとに根差した人々の生活が書かれた小説と理解しているので、郷土文学のままでいいんじゃないかと思ったりしたんだが。なんで「国民文学」にしたのか字幕翻訳者さんにたずねてみたいです。

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