Sunday 12 June 2016

『追憶と,踊りながら』観た―コミュニケーションを撮ること

イギリス映画『追憶と,踊りながら』を観た。原題は“Lilting”。ウェブリオで検索したら「〈声・歌など〉軽快な(リズムのある)、浮き浮きした」と出てきた。そのタイトルや淡くやさしい色合いの映像とは裏腹に、どのシーンにも重たい空気を感じたのは私だけだろうか。

介護ホームに暮らすカンボジア系中国人のジュンは、亡くした一人息子・カイとの記憶の中に生きていた。そこに現れたのがカイの恋人・リチャード。カイとリチャードはゲイのカップルだったが、カイは自分がゲイであることを母親に打ち明けられずにいたのだった。カミングアウトしようと決めていたその日、カイは交通事故で帰らぬ人となってしまう。

リチャードは何かとジュンを気にかけ、ジュンが介護ホームで知り合った男性アランとコミュニケーションをとれるようにと、北京語と英語が話せる友人・ヴァンを連れてきて共に交流を始める。だがジュンはリチャードのことを毛嫌いしたままお互いの溝を埋められず、リチャードもまた、カイとの関係を打ち明けられずにいた。

気になったこと。

互いに話す言語を理解できない者同士が、通訳者を介してコミュニケーションをとろうとする構造について。そうすると、通訳者はプロではなく、どうしても言葉を発した者の伝えたかった元のニュアンスがうまく伝わらないことがある。それは時に滑稽なやりとりを生み出し笑いを誘うが、ジュンとリチャードとの溝が一向に埋まらない様子に、観ている側はやきもきさせられたりもする。また、カイとリチャードの関係性に関わることなど“伝えにくいこと”について、リチャードが「今のは訳さなくていい」と言ってしまえば、通訳者がそれを伝えることはなく、本来伝えたかったはずの事柄はコミュニケーションの継ぎ目からこぼれ落ちてしまう。相手の言語が分からない二人は通訳者を介すが、それによりコミュニケーションが万全になるとは限らない。むしろ、ムードを悪くして確執を深めてしまうこともある。最終的に二人が大事なことを話すとき、通訳者が間に入って訳することはなく、理解できないが互いに何かを伝えあっている、という状況が生まれる。

同じシーンを複数の角度から撮ることについて。事故に遭う前日、カイは介護ホームに訪れてジュンと何気ない会話をした。そこでのジュンとカイとのやり取りのシーンには、同じセリフでも二通りある。一つは、冒頭でジュンの記憶として蘇るもの。そこに映るカイの姿は少しやんちゃそうな、溌剌とした青年という感じ。これはジュンの視点から見たあの日=事故に遭う前日の、最後のカイの姿だ。もう一つは、中盤でやや断片的に流されるもの。ここではよりカイの心理に寄せて親子のやり取りが撮られている。次の日のディナーでカミングアウトすると決めていたカイの、少し強張った不安混じりの表情に、ジュンが気づくことはない。親子の間を閉ざすなにかがあったことを感じさせる。

ラストの仕掛けと、コミュニケーションの前提条件について。リチャードがついに、カイがゲイであったこと、自分がカイの恋人であることを伝えるシーン。想像しうるシナリオならば、このあとジュンはこう答えるはずだ。「本当はずっと前から知ってたのよ」「でもどう受け入れればいいか分からなくて、あなたに冷たく当たってたの」というように。そうして二人は静かに抱きしめ合い、互いの傷を深く理解し合う。それは観ている者にとってある種のカタルシスを味わうことのできる結末であるかもしれない。でもこの映画はそんな分かりやすい展開にはならなかった。ジュンは通訳者越しにその“事実”を聞くと、大きく表情を変えることはなく、かといってそれを知っていたというような素振りも見せず「私は愛する人のために嫉妬していたの」「あなたも子どもを持てばその気持ちがわかるはずだわ」と。リチャードは「あの時カイに車を使わせていれば事故には遭わなかったのに」とおそらく自分を責め続けていたであろう胸の内を語る。続けてジュンは「私は母としてただ(カイを縛り付けようとしたのではなく)カイのそばにいただけだった」と。ここで通訳は介されない。二人は互いが何を言っているか理解しないままだが、不思議と二人とも今は亡きカイに対する懺悔のようなことを話す。そして最後、ジュンは思わずリチャードに向けて「カイ…」と呼びかけるのだった。二人の間に共通言語は必要なく、ただ「カイを愛している」という前提だけがあれば、それで関係が成立するようだった。

リチャードを演じるベン・ウィショーという俳優は、数年前に自身がゲイであり、同性結婚をしたことを公表している。ゲイがゲイ役を演じることについてこんな記事があった。私はそういう背景を知らずに観たけどすばらしい演技だと感じたし、背景を知った後も、彼がこの役を演じることでLGBTに対する理解というような社会的な意味が作品に加わったり、そもそも作品としての厚みが出たりしてよりいいものになったんだなと思った。一方で、舞台(スクリーン)から降りた後の役者の素顔だったり、人となりだったりを知っておくことって、そんなに重要なことではないよなと思ったりもして。むしろ単純に楽しむためだけなら知らずに観る方がいいこともあるよなって。というのは、最近、伊藤英明が主演してるドラマ『僕のヤバイ妻』を観てて、あれ佐藤隆太が刑事役で出てるけど、伊藤英明と佐藤隆太のコンビって言ったら『海猿』のイメージが強すぎるじゃないですか。私なんて伊藤英明のファンでよく海猿のDVDについてくるようなメイキング映像とか欠かさず観るわけですよ。そうすると佐藤隆太のおちゃらけたキャラクター全開で、以後自分の中ではそのイメージが定着してしまい、捜査がうまくいかずに壁に拳骨ぶつけて声張り上げてる演技なんか観ても、なんかギャグにしか映らないのですよ。シリアスなセリフのあとに「な~んちゃって」とか言ってる佐藤隆太しか思い描けない。良くも悪くも。

ホン・カウ監督のインタビュー記事がある。イギリスの移民の問題とか、カンボジアから転々としてイギリスにやってきたという家族史のこととか、色々盛り込まれてて語り切られず。次回作も気になる。あとは「夜來香」がよかった。もう一曲中国語の曲出てきた。この記事によるとメキシコの曲の中国語カバーver.らしい。イー・ミンって歌手誰だろう?

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