Tuesday, 19 September 2017

植民地期台湾に生まれた「湾生」のおばあちゃんに話を聞く―歴史のかなしさ、おもしろさ

もう一ヵ月経ってしまったが、お盆の間、恋人氏の実家にお邪魔した際に、彼の母方のおばあちゃんに初めてお会いした。おばあちゃんは日本植民地期の台湾で1930年代に生まれ、その後12年間を新竹や台中で過ごした「湾生」の一人だ。以前からおばあちゃんが台湾に暮らしたことがあるということ、おばあちゃんの妹さんが台湾で生まれたということを恋人のお母さんづてに聞いていたのだが、直接会ってお話を聞くことができたのはこれが初めてだった。現在は老人養護施設に住まわれており、車椅子での生活を余儀なくされている様子ではあるけれども、はきはきとした様子でご自身の記憶について語ってくださった。その貴重なお話について、まとめておきたい。

おばあちゃんの話では1945年の終戦時に12歳であったとのことなので、おそらく生まれたのが1933年のことと考えられる。当時、父は台湾鉄道の駅員をしており、母もまた駅で切符を切る仕事をしていた。おばあちゃんは7人兄弟の4番目に生まれた。印象的だった記憶について尋ねると、当時住んでいた官舎が立派なもので、敷地の入口には門がわりに二本のパパイヤの木が立っており、玄関までの通り道に白い花が植えてあったという。おばあちゃんが生まれたのは新竹駅の隣にある駅だそう。現在だと北新竹駅、三姓橋駅が両隣にあたるけれど、当時はどのあたりだったのか、ちょっと調べてみないと分からない。

本島人との関わりはありましたか?という質問に対して、彼らのことは「生蕃」と呼んでいて、滅多に見ることはないが、生蕃の親子がときおり山から下りて来るのを好奇心で見に行ったりしたという。おばあちゃんの中で「本島人」というと、「生蕃」つまり原住民が真っ先に思い浮かぶらしい(実際は漢族系の住民も含めて本島人と呼んでいたはずなんだけど)。学校ではクラスに2、3人くらいいたというが、それは漢族系の住民のことか、原住民のことかは分からない。彼らとの関わりは薄かったか、記憶に乏しいようで、それ以上詳しい話は出てこない。

私は本島人の人が日本語で書いた小説を読んだことがあるんですよ、と話してみると、私もそういえば一つだけ、本島人の物語を覚えている、という。聞くと、本島の女の子が橋を渡ろうとするときに、氾濫する川に流されて亡くなってしまうという話だ。聞き覚えのある話、そうだ李香蘭が主演で映画化したやつじゃなかったかと思い後で調べてみるとビンゴ、1943年7月公開の『サヨンの鐘』だ。これは実話が元になっていて、1938年に村に赴任していた日本人巡査の出征を見送る際、荷物を運んでいたサヨンという女の子が橋で足を滑らして落ちて亡くなったという出来事。ざっくり言えば、これが愛国美談として語られるようになり、西條八十作詞・古賀政男作曲の歌謡曲にもなり、映画にまでなったという流れ。1938年というと、おばあちゃんは8歳前後だったと思われ、実際に起きた事故をリアルタイムで耳にしたり、その後も歌や映画を見聞きしたりした可能性が大いにある。そういう歌がありましたよねと言ってみると、そういえばあった、思い出せそうで思い出せない、と話してた。なんだか誘導尋問みたいになってしまって、インタビューの難しさを感じる。そうこうしているうちにおばあちゃんがある曲を思い出したといって鼻歌を口ずさんだ。曲名をたずねると「ホーリー…」なんちゃらとかで、もしやと思い「何日君再来ですか?」と漢字を見せてみるとこれだ!と。この曲は1937年、上海の歌手・周璇が歌ってヒットした流行歌。後にテレサテンも歌っていて日本でも比較的馴染みがある曲だと思う。なるほど、「サヨンの鐘」と言い「何日君再来」と言い、おばあちゃんの記憶に残る台湾での少女時代に、時期的にはぴったり重なるし、「何日君再来」に至っては中国大陸でヒットしたのが始まりだけれども、それが台湾でもよく聴かれていた、流行していたことを思わせるエピソードだ。

話が進むうちに、同席していたおばあちゃんのご家族、つまり私の恋人である孫とその弟くん、そしておばあちゃんにとっては娘にあたる恋人氏のお母さんも、こんな風に詳しい話は今まで聞けたことがなかったといって興味津々に。そして、そもそもなぜおばあちゃんの両親は台湾へ渡ったのだろう、という話に。

おばあちゃんによると、母親の叔母にあたる人が先に台湾の基隆にある呉服店で働いていたのだそう。母は九州小倉の出身で、自立志向というか外向き志向というか、田舎を出て働きたいという思いを持った人であったことから、叔母のつてを頼りにその呉服店に働きに出たのだそうな。後で調べてみるとこれまたおもしろく、実に基隆には「岸田呉服店」という呉服店が存在し、その建物の面影は今も残されている(フェイスブック関連ページ)。基隆で呉服屋というとここ一軒、つまりおばあちゃんの母、そして母の叔母が働いていたのはこの「岸田呉服店」とみてほぼ間違いない。おばあちゃんの話では、店では松坂屋の品物を扱っており、本島人を雇っていたが、買いに来るのは皆日本人であったとのこと。

一方の父親に関してはあまり詳しく聞けなかったのだが、鹿児島の加治木出身で、当時の「若者は外に出よう」という風潮の中で台湾にやってきたのだという。台湾鉄道で働き、その後、ちょうど呉服店をやめて切符のもぎりの仕事をしていたおばあちゃんの母親と出会い、結婚した。母は出産後に仕事をやめている。おばあちゃんによると、母親はすらっとして、はきはきした物言いの、忍耐強い人だったという。

そもそもおばあちゃんとお話するに至ったきっかけには、恋人のお母さんも驚きながら教えてくれた不思議な縁がある。おばあちゃんは1945年の8月15日の終戦を機に、その後多くの台湾に住んでいた日本人同様、引揚船に乗って日本へ引き揚げていくことになる。そのおばあちゃんを乗せた引揚船が到着した場所が、私の生まれ故郷の和歌山・田辺だったのだ。そのことについてもおばあちゃんに聞いてみたかった。

当初、おばあちゃんたちを乗せた引揚船は鹿児島の港に到着する予定だった。ところが、船内に胃腸の病気を患っている人がいて寄港できず、田辺まで移動することになったそうだ。確か田辺の引揚者回想記をまとめた資料の中にも似た話があったはずなので後で確認したいのだが、船内で感染症か何かが流行ったせいで寄港を拒否されて最終的に田辺港になったとか。鹿児島の港に着いていれば実家も近かっただろうに、おばあちゃんは田辺に降り立ち、幸か不幸か、そこから九州に行くまでの間、汽車の窓から空襲で焼け野原になった街や、原爆の被害を受けた広島を目にする機会を得た。田辺港では地元の人にあたたかく接してもらったとのこと。港に着いてもなかなか下船できないので、コーリャンで炊いたご飯がボートで運ばれてきて引揚船内でそれを食べたという。赤かったのでたぶんコーリャンだとのこと。赤飯?とも思ったけど、赤飯ではないと。確かに、食糧難だったろうし、赤飯なんてあるわけないよな。とりあえず、おばあちゃんたち一家は無事日本に辿り着いた。おばあちゃんにとっては、ある意味、未知の国であったはずだ。

引揚時の話で、印象深いエピソードがあった。当時、植民地台湾で使っていたお金は日本でも使えるという話を聞いた一家は、枕や布団といった布製品の裏にお札を隠し、引揚船の乗り場に向かった。しかし、乗り場には戦勝国となった中国国民党の軍隊がいて、船に乗る日本人の持ち物を厳しく検査していた。もし金品を隠し持っているのがバレれば、その人や家族だけでなく、同じタイミングで乗船する予定だったグループの人たち全員が後に回されることになり、その分、帰国が遅れてしまうのだった。銃剣を持ったいかめしい国民党軍につかまるのも怖いということで、おばあちゃんたちは泣く泣く、隠していたお金を海に捨てることにした。五十銭紙幣がひらひらと舞い、海に落ちていく光景を、おばあちゃんは悔しさと悲しさから、今もありありと思い出されて忘れられないのだと話した。

おばあちゃんにとっては、台湾での少女時代は基本的には楽しかった思い出として残っているようで、話を聞く限りでは、おそらく帰国後の生活が何よりも苦労の連続であったのだろう。九州に戻ってからもしばらくはいろいろな事情で家族が一緒に住めず、おばあちゃんは家計を助けるために山に魚を売りに行く行商の仕事をするなど、とにかく大変だったそうだ。父は国営野井倉開墾事業所で水田事業に関わったそう。おばあちゃんの話では、戦時中には朝鮮から人を集めて飛行場を作ろうとしていた場所で、戦後はそこに水田を作ろうとしていたのだという。九州農政局のサイトによると「昭和19年、戦況の悪化により野井台地に海軍飛行場が設置されることになり…」とあるのでこのことだろう。さすがに朝鮮から人を集めなどとまでは記載がないが、実際にあったとしてもおかしくなさそうだ。

さて、つらつらと書いてしまったが、今回おばあちゃんから聞けたお話は、だいたいこんな内容である。これまで台湾研究を多少は齧ってきた人間なので、本や何かで記録として、これらの歴史に触れることはあった。けれども今回、実際にその時代を生きてきた人から話を聞くことができて、非常に心がアツくなったし、歴史というものがふいに重力を帯びて目の前に立ち現れたかのように思えた。記憶を絞り出そうと目を細めながら少しずつ語ってくれるおばあちゃんの姿が印象的で、私はいつまででも話をしていたいと思ったのだけれど、おばあちゃんも今はそうお若くはなく、施設で暮らしていらっしゃるし、体力的にも、面会時間的にも限りがある。次に会えるのはいつになるか分からないけれども、また会いに行きたい。

最後にもう一つ!

話の中で、おばあちゃんは戦後、蒋介石がいたから台湾は大丈夫だった、みたいなことを言ってて興味深かった。大丈夫ってのはおそらく、毛沢東は中国大陸で文化大革命をやって悲惨な結果を出したから、台湾はそうならなくて良かった、って意味だと思うんだけど、その認識からは蒋介石と国民党政権の台湾支配がもたらした悲劇がすっかり抜け落ちている。二・二八事件、白色テロ…私自身は日本による植民地支配を美化するつもりはさらっさらないのだが、植民地期を生きた台湾の日本語世代からすれば、1945年以降の国民党政権下での悲しい記憶から、日本へのノスタルジーを抱き、植民地支配の美化をせずにいられない気持ちは否定できない。その一方で、台湾に生まれた日本にルーツをもつ「湾生」の一人であるおばあちゃんが、「台湾には蒋介石がいたからよかった」というような認識を持っていることになにか皮肉を感じてしまう。数年前、台湾でお会いする機会のあった白色テロの被害者でもある蔡焜霖さんのことを思い出す。また、二・二八記念館でずっと日本語ボランティアをされている簫錦文さんのことも。「日本はどうして我々を見捨てたのか」と問いかける彼らに対して、彼らと同世代の日本人はこれまで何も返事を返さなかったどころか、認識が完全にすれ違っていたのかと。

―「どうして日本は台湾を見捨てたのか?」
―「いや、台湾はよかったじゃない、蒋介石がいて」

戦後、日本人も生きるのに必死だった。分かる。分かりたい。そういうのを差し引いても、これじゃあなんだか悲しすぎやしませんか。おばあちゃんたちを責めたいわけでもなんでもない。じゃあどうするか。どうするかね。

Friday, 28 July 2017

《戀愛沙塵暴》の感想など。

今さらながら《戀愛沙塵暴》を観た。
勘違い、すれ違い、不信感…家族や友人、恋人との関係上にある綻びが、小さなきっかけで大きな裂け目になる。でもそれが、関係を修復するための、あるいは見直すための、大切なきっかけともなる。林一家のそれぞれが経験する、恋愛に絡む成長物語?という感じだった。

スローモーション取り入れたり照明を急に変えたり、非現実的な映像交えたり、演出が適度に奇抜でおもしろかったのもあるけど、それに合わせて俳優陣の演技もキレッキレで退屈しない。林家の長男・林亦得を演じたのは安定の吳慷仁。愛想を振りまいて機嫌をとるのがうまいけど、ここぞというときに大事なことをはっきりと相手に伝えられない。そのせいでわがままと束縛を繰り返す恋人の言うがままにされて挙句に仕事を失う情けない役柄。その“お姫様症候群”の恋人役をする葉星辰の演技もキョーレツ。背後から亦得にスタンガンを浴びせる時の狂気じみた笑み。彼女にはしたくないし、自分もああいう人間にはなりたくないけど、自らの欲望を曲げることなく直球でぶつけてくる強さは少しくらい見習ってもいいかもしれない。

一番気になったのは長女・林亦珊と莊浩洋の恋。友情か愛情かで躊躇せず友情を選んでしまう純粋さ。だからといって恋心をなかったことにできるはずもなく苦しい。葛藤する役どころを演じたのは新人の陳妤という女優さん。相手役も新人だそうで許光漢という。撮影中のおまけ映像では、監督から演技指導を受ける陳妤の姿を見た。初々しいようで情熱的な演技をするなあと思った。中国語で言う「一夜情」は「一夜限りの恋」とか「(思いがけず)一夜を共にする」といった意味合い。最近よく台湾ドラマで耳にするような気がするけど、この二人も「一夜情」から始まった恋。現実ではあり得なさそうな筋書きもドラマだとなんか運命的な出会いとしてまとまってしまうからすごい。浮気常習犯だった浩洋から親友を守ろうと、敵対心を抱いていたはずが、ハプニングを経て気持ちを持ってかれる、その過程での二人のやりとりに不覚にも胸キュンしまくった。普段からラブコメの胸キュントラップ(と勝手に呼んでいる)をバカにしているのに、まんまとハマる。

ドラマは観客の観たいものをみせるものが必ずしもいいドラマだとは言えないと思っているけど、痒いところを掻いてくれるかのように、そうなってほしいと思っている通りに話が進んでくれると、それはそれでやっぱり気持ちがいい。たまにはそういう作品を観て息抜きにするのもありだ。前半でこれでもかというくらい家族同士が、夫婦同士がすれ違いを重ねる、その歯がゆさが後半でずばずばっと解決されていく、気持のよさ。

この流れでYoutubeにある吳慷仁のインタビュー動画を観ていた。今まで知らなかったが、中学生のころから働き始めて、10代のころにいくつもの仕事を経験したとかで、苦労していたみたいだ。俳優の苦労話を美談にしたいわけではなく、ここ数年、台湾の映画、ドラマ界でもてはやされている、普段見ている映像の中の彼からは想像がつかなかったので、少し驚いた。鳶の仕事をしてて足の裏に釘が刺さったこともあったとか。釘を抜くと血が弧を描いて噴き出したって笑いながら話してた。それから台北でバーテンダーをやって、俳優に。(確か向井理もバーで働いててスカウトされたんじゃなかったか?)今自分が迷いながら仕事を探している身なので、こういう迷う暇もなく働くしかなかったとか、そうこうしている間にいろんなことやってたとかで、おもしろい経歴している人にはとりわけ興味が湧く。さて自分はこれからどうするのだろうか。台湾ドラマばかり観ていていいのだろうか。


Friday, 14 July 2017

看完《花甲男孩轉大人》之後想到自己家人的事

以下原本我想寫電視劇的事情,但後來發現寫出來的都是自己的故事。

我也像阿甲一樣有養我長大的外婆,儘管這幾年我很少回老家看她,她還是一直在乎我,偶爾給我打電話來問我最近好不好,有沒有缺錢,工作會不會太辛苦等等。我非常感謝她這麼多年,我離家已經幾年了也依然不變的對我的愛情。但是坦白地說,有時候不想接她的電話,是因為她除了問我好不好之外,她還跟我說母親的壞話。

我媽和外婆之間,不曉得甚麼時候開始,從誰先開始,總是彼此討厭,甚至外婆說「你媽連一句話都不願跟我聊,也不願讓我吃飯」。我媽也因這件事而受精神上的壓力,加上她長期患有憂鬱症,所以我知道事實不一定是外婆說的那樣。她們母女之間似乎有解不了的糾結,其中也一定有一些誤會,才變成現在這樣。其實我和母親的關係也不好,但至少關於這件她們之間的事,我很同情我媽。不過我也沒辦法解決她們之間的問題,又不想每次每次都聽外婆電話裡說的真真假假罵人話。簡直說我根本不想理他們。

因此,這幾年我都不願意給外婆打電話或者去找她。而現在,我把這部電視劇看完之後,想到我也早晚得面對這種離別,不管外婆和母親的關係如何,我是否該到時之前好好向外婆表達愛意和感謝,同時好好處理家庭的問題。我很羨慕阿甲的家庭。他們互相有矛盾,但確實也有愛情的存在,我們在戲劇裡能感受到這種愛,所以不禁流著眼淚感動。可是我覺得不一定是每個家庭能夠像他們一樣成功打破彼此間的牆壁,去理解對方,迎接圓滿的結局。

我總是從家人的問題逃避的。我也有點像阿亮一樣,總有被家人逼演模範生的感覺。我在學校的成績好,老師的評價也不錯,但我心裡想這根本不是自己想要的自己,而是家人希望的女兒的樣子。小時候對我來說,我唸書唸好是為了獲得母親的承認。可是離家以後我再也不想回應家人對我的期待,反而有時候傻傻地想,我工作越不順利越好,我這輩子沒出息就好,這樣才能讓他們失望,很爽。(我知道我這樣想的不對,這是我偶爾遇到困難或失敗成灰心沮喪的時候才想的。)總之,我認為家人對我的嚴格要求和被母親控制的童年時期的經驗影響到我的個性,讓我變成常常不知道自己想要做甚麼,不能決定自己的未來,很猶豫下決心的人。

這種想法到底對不對?我其實同時認為,把家庭環境拿來講自己的個性、趨向怎樣,是有點不成熟,缺乏對自己人生的責任感的舉止。精神上脆弱的部分,當然是受過多少有一點家庭環境的影響而被形成的,但或者改變或者不改變這些自己的缺點,是無法靠別人,只能靠自己來搞清楚。在我心裡,這兩種想法都還留著,這就證明我也還轉不了大人。

以上寫的感覺跟那部電視劇幾乎沒有關係。不過我想到,我喜歡看台灣的電視劇,也許是因為在其中能享受到自己沒能得到的家庭溫暖、父母的愛情、孩子對父母的信任。

盧廣仲の出演作、《花甲男孩轉大人》を観た

盧廣仲も出演したドラマ《花甲男孩轉大人》をネットで全話観ました。ほぼ台湾語のセリフで、台湾語聴きながら中文字幕を追いかけるのに必死で耳も目も忙しかった。

ざっくりあらすじ。

一家のおばあちゃんが危篤状態になったことをきっかけに、5人兄妹の子どもや孫たちが実家に戻る。生死の境をさまようおばあちゃんをよそに、遺産相続をめぐってもめる次男と三男。それに辟易していながらも次男の言うなりにしかできない長男。息子を失った悲しみからいつまでも逃れられない四男。いつまでも未婚であることを責められる末っ子の長女。加えて彼らの子ども、つまりおばあちゃんにとっての4人の孫たちも何かとワケありだ。いつまでも大学を卒業できない花甲、家出したまま行方知れずの阿慧、若くして一児のパパで檳榔中毒の花明、優等生として育てられたがデキ婚間際で不審な行動を見せる花亮。

バラエティ豊かな登場人物の、様々な思惑が交差する中、おばあちゃんの死を看取ろうと親族が集まったその懐かしいふるさとの「家」で、彼らはむしろ、それまで目を背けてきた親子の関係や愛する人の心の傷に、向き合うことになる。

人はいつになれば大人になったと言えるのだろう。主人公の花甲は、もう何年も留年し続けて、自分が本当にやりたいことが何なのか定められないまま、流れに抗えず父親の跡を継ごうとする。物語の中で、子どもが大人になるまでのモラトリアムの象徴として描かれているのが彼だ。同じ世代の自分としても、決断を促される時の、あのもやもやとした感覚や、友人が彼に投げかける「神様が言ったからそうするのか?自分はどうなんだ?」といった言葉が痛くめり込んでくるのを感じながら観ていた。

自分の将来を自分で決めて、その決断に責任が持てるようになった時、人は大人になったと言えるのだろうか。自分の愛する人と結婚して家庭を持ち、職を得て働き、見かけにはれっきとした「大人」と言えるかも知れない。でもいつの間にか、自身の成功のことしか考えず、自らに非はないと信じ、周りの人間を思いやれない傲慢な人間になっていないだろうか。あるいは、過去の辛い記憶や後悔の中に己を閉じ込め、未来に目を向ける勇気を持てない臆病者になっていないだろうか。そうした人たちのことを、胸を張って「大人」だと呼ぶことができるだろうか。

ドラマの登場人物を見ていると、花甲よりもはるか年上の彼らが、大人どころかひどく情けない人間に映ることがある。「大人」というのは、蛹が蝶になるように、ある瞬間からそうなって二度と元には戻らないというよりも、一時的な状態のこと表す言葉に近いのだろう。人は常に大人と子どもを両極とするグラデーションの中で生きていくのかもしれない。

このドラマは花甲をはじめとする若い世代の成長物語でもあり、彼をとりまく年長者たちが生き方を再び見直し、模索する物語でもある。それぞれの人物の物語を最終的にちゃんと回収しようとしているあたり、脚本も演出もスゲ〜な〜と思いながら見ていた。それに、盧廣仲が俳優やるなんて大丈夫かよ?!と心配したものだが、意外にも自然体の演技が程よく、見ていて違和感なく鄭花甲という人物を受け入れることができた。それも監督の腕なのかしら、と思ったり、逆に普段から俳優をやりなれていない彼だからこそ、鄭花甲という純粋で善良な、愛嬌のあるおばあちゃん子を演じることができたのかなとも。とはいえ、」彼が最も才能を発揮しているのはやはり、挿入歌やBGMの部分だな。

台湾語で郷土もののドラマというと、アクが強かったり演技が大袈裟だったりドロドロしすぎてたりして、日本語ネイティブの私からするといつもあんまり観る気が起きないし続かない。でもこのドラマは観やすかったです。これを機に台湾語の勉強にも力を入れたい。

Wednesday, 31 May 2017

李千娜という歌手/女優、そしてChloe

先日、吳慷仁のことを書いたのだが、一つ書き忘れたことを思い出した。彼の出演作で「迷徒-Chloe-」(2016年、監督:曾敬懿)というドラマも結構おもしろかった。主演は最近話題になった「通靈少女」にも出演、主題歌を歌っていた李千娜。さらに劉以豪も登場。吳慷仁は李千娜演じるChloeの昔の恋人役。

番組プロデューサーであるChloeはバンドマンのRex(劉以豪)の演奏に惚れ込み、彼を起用してミュージシャンの生き方に迫る音楽番組を製作しようとする。しかし上司は名もない彼を取り上げることに反対。話題性を理由に有名なピアニスト・汪士棋(吳慷仁)を呼び、Rexと共演させることに。番組制作の過程で、RexとChloeは互いに好意を抱くようになるが、一方でChloeは汪士棋との間に過去のわだかまりを抱えたまま。それは次第にRexとの関係、さらに番組の進行自体にも支障をきたし始める。Chloeの心には罪にも似た重たい過去の記憶がのしかかっていた…

中国語で「第三者」とか「小三」というと、“浮気相手”やカップル、夫婦の間に割って入ろうとする“邪魔者”的な立ち位置の人を指す。Chloeと汪士棋が付き合っていた頃、汪には実は妻と子供がいた。奥さんから見ればChloeは「小三」だったわけだ。夫から別れを切り出された時、妻は憔悴して精神を病み、娘を残して自殺してしまう。Chloeはそのことで悔やみ、自分を責め続け、汪との関係も断ち切った。にも関わらず!未練タラタラの汪が番組に関わることになり、まだ気がある様子で絡んでくるし、Chloeはまだ癒えていない傷口に塩を塗られるような思い。そのせいでRexとのコミュニケーションもうまくいかない。

つまりは、不倫をしてその行為によって人を殺してしまったという罪の意識、そのような行為をした自分にはもはや愛情を求める資格などないという臆病な思い込み(正確には、おそらくそう自分に言い聞かせることで、罪の重さを軽くしようとしている)に苛まれて道を見失っている(「迷徒」)女性Chloeの物語だ。そしてそんな彼女が過去を乗り越えることができるのか、どんな答えを出すのか、というのが最終的な見どころになってくる。

そんなChloeを演じる李千娜の経歴が興味深い。父親はドラマー、母親は歌手、祖母は歌仔戲、叔父は布袋戲をやっている芸能一家に生まれる。両親の離婚後、父と共に南部に移り住み、父は南投で歌劇団をしていた(娘の名前を歌劇団の名前にしたらしく、李千娜は子供のころ恥ずかしくて仕方がなかったとのこと)。素質があったみたいだが、テレビのコンテスト形式の歌番組に素人として参加して、そこから歌手デビューを果たす。その後は映画『茱麗葉Juliets』に出演したことで、歌手としてよりも女優として一躍有名になる。今では歌手も女優もこなす。

「歌手である私は李千娜自身で、私の人生の物語を語っています。俳優である私は違う人生を体験していて、他人の人生の物語を演じているんです。」(元記事リンク

李千娜の曲を聴いていると、昔のも最近のも、浮気とか友達に恋人を取られるとか、「小三」に関わる歌詞が多いような気がする。下世話なことだが、過去に恋人に裏切られたとか、とりわけ彼女の生き方や考え方を形づける大きな経験があったのかなと憶測してしまう。あるいはレコード会社の売り出し方?

MVに吳慷仁が出ている曲《說實話(本当のこと)》
このMVのストーリーも同様で、恋人と友人が浮気していたことを知って「本当のことを話すのがそんなに難しい?」と恋人に詰め寄るシーンがある。自分にも他人にも正直でありたいという彼女の切実な思いに溢れた曲だ。(個人的には恋をしてしまえば正直もへったくれもないという考え方ですが。)

Monday, 29 May 2017

台湾ドラマ『一把青』の吳慷仁が好きでして。

ここ数カ月の間に観た・観てる台湾ドラマ。

・命中注定我愛你(ハートに命中!100%)
・醉後決定愛上你(最後は君を好きになる)
・金大花的華麗冒險(カノジョの恋の秘密)
・那一年的幸福時光
・麻酔風暴
・一把青
・極品絕配
・我的愛情不平凡

日本語版も出てる上の三作のように、ひと昔前の台湾ドラマは全30話とかあって物語の起伏が無駄に多い(そうしないと30話も続けられない)。運命的な出会いから、主人公の二人の距離が縮まってくっつきそう~~ってなったところでタイミングよく新キャラが登場して邪魔をするし、家世背景(家柄)の違いが原因で家族に反対されたりするし。この感じは遠からず近からず日本の昼ドラのようでもあるし、少女漫画的な要素もあると思ってたけど、「日本の少女漫画の要素+韓流ドラマの要素の合わせ技」と言ってる人がいてまさにそうだなナルホドと思った。とはいえ、こういう“あるある”要素はあくまでいわゆる「アイドルドラマ」と言われるような、ラブコメ路線のドラマに当てはまるもので、「一把青」や「麻酔風暴」のようなシリアスなジャンルも見てみれば台湾のドラマに対する通り一辺倒なイメージががらっと変わることもある。

「一把青(英題:A Touch of Green)」(脚本:黃世鳴、監督:曹瑞原)は白先勇という著名な作家が書いた小説を元に制作された歴史ドラマ(たぶん日本の大河ドラマに近い感じ)。日中戦争で国民党軍の空軍パイロットとして戦かった男たちと、その帰りを地上で待ち続けた妻や恋人、娘といった女たちの物語。日中戦争から国共内戦へ、そして台湾への逃避、新しい土地での暮らしと、激動の時代を跨いで物語が展開される。台湾ではいわゆる外省人と呼ばれる、中国大陸にルーツのある人々の物語だ。その中でも日中戦争時に国民党軍の軍人として活躍した人とその家族の歴史にスポットが当てられている。台湾の近現代史、特に第二次世界大戦後から現在にかけてというと、どうしても二・二八事件を主とする省籍矛盾、その後の白色テロといった台湾人(本省人)の抑圧された歴史が、本省人の視点から語られることが多い。その一方で、外省人に対してひとまとめに“加害者”のレッテルが貼られて、実際に生きてきた人々の多様な経験が見過ごされることもしばしばあるようだ。

以前、元軍人の中には、共産党との戦いで負けて命からがら台湾に逃げ延びたというのに、政府からはもまともな補償もなく、家族も失い身寄りのない土地で孤独な生活を余儀なくされた人もいるのだという話を聞いたことがあった。二・二八事件や白色テロでも、被害に遭ったのは本省人だけに限らない。ドラマの中にも、楊一展演じる退役軍人の江偉成にスパイの嫌疑がかけられ、拷問を受けるというシーンがある。華々しい空軍隊長からスパイ容疑者への転落に、江は憔悴しきってしまう。大衆向けのドラマでこういった歴史をテーマに作品が作られ、共有されるというのは、とても意味のある事なんだろうと思う。以前は埋もれていたかもしれない、色んな小さな物語を、バックグラウンドを問わず自分たちの住む土地にまつわる歴史として捉えなおし、組み立てていく作業が日々繰り返されているようで、それはとても健康的なことだと思える。むしろ、現在の台湾社会、特に自分と同世代の若い人たちを眺めていると、意図的に省籍の話を持ち出してやいのやいの言うのはもはや時代遅れ、ナンセンスだという感じがして否めない。

台湾の歴史について、少し事前知識がないと話についていけないかもしれないけど、映像も脚本も手の込んだものだから、台湾好きには是非観てほしい作品だった。友人に勧めたいが、いまのところ日本語字幕版は出てないみたいだ。

正直に言うと、「一把青」を観始めてから4話目あたりでもう続きを観るのがつらくなってしまった。それもこれも物語が悲劇に向かう臭いしかしなかったからだ。当たり前だが、毎週末に1話ずつとか、毎日1話ずつ観るのが正解で、私のようにネット上で一気見などしてはいけない。涙腺が崩壊する。それなのにどうしても観たかったのは、吳慷仁という俳優が出演していたため。台湾で現在放送中のドラマ「極品絕配」にも出演している。「一把青」では、吳慷仁の飄々としたどこか掴みどころのない雰囲気が郭軫という役にマッチしていた。本人は当初、イメージする郭軫の体型や特徴などからして、その役に自分は相応しくないと考えていたらしい。
「小説から想像した郭軫は、身長182cm以上、胸囲42インチ、腰回り30インチ、容姿端麗で瀟洒、飛行技術が高く、その上自信がある。自分にはそんな素質がないと思ったが、曹監督の確信があって演じることに。」(※元記事リンク
こちらからすれば、いやいやあなたも十分背が高くてハンサムですよと言いたくなるが。彼はこの役で金鐘獎の主演男優賞を受賞することになったのだから、監督の目に狂いはなかったってことだろう。

同じく吳慷仁出演の「麻酔風暴」は近々台湾で第2弾が放送開始予定とのこと。病院を舞台にした医療サスペンスドラマ。不眠症を患う主人公の麻酔科医師が医療ミスで訴えられるが、同僚や上司の医師、さらには手術により亡くなった患者の遺族に不可解な言動が見受けられ、患者の担当をしていた医療保険セールスマンとともに主人公が真実を探り始める。その一方で、カウンセラーの支えがありつつ、不眠症の原因である過去の記憶とも向き合うことになる。といったあらすじ。全6話くらいの短い話だったけど実際これくらいがちょうどいい!退屈せず、展開もおもしろく。吳慷仁はセールスマン役で、これがもう、ネタバレになるとあれだから何も言えないけど、いい演技をしている(ほんとに日本語字幕版出てほしい)。主演は黃健瑋で、彼のインタビュー記事を翻訳したのがあるので参考までに。

脚本は黃建銘、王卉竺というお二方、監督は蕭力修。蕭監督と言えば北村豊晴監督と一緒に撮った映画『おばあちゃんの夢中恋人(阿嬤的夢中情人)』。以前、六本木の映画館で鑑賞したのだが、登場するおばあちゃんの若かりし頃、1960年代の台湾映画や台湾語歌謡が流れてきてテンション上がる上がる。最近のドラマだとヤクザの親分役でお馴染みの龍劭華という俳優が、おばあちゃんを真摯に愛するおじいちゃんの役柄で登場する。認知症の妻との思い出を語るというストーリーからすると『君に読む物語』に似ていた。こういうのはもはや定番なのかな。

最近はもっぱら金曜放送の「極品絕配(英題:The Perfect Match)」を楽しみにしている。吳慷仁出演の上記二作のドラマとは違ってよくあるラブコメものなので気楽に観れる。三立テレビの番組だが、三立は太っ腹で、ネット上で現在放送中の番組だけでなく、過去に放送したものも無料で公開している(全てではないです)。Vidolというサイトで無料登録すれば観れる。ところで、以前何気なく「愛上哥們(アニキに恋して)」のタイトルを和訳して記事に書いてたら日本の配給会社から使いたいと連絡がきたので、それ以来ドラマのタイトルを思案するのが楽しみの一つになっている。「極品絕配」も考えてみたけど、この中国語独特の言い回し、単語を二つくっつけて成語っぽくしたやつは手強い。「恋する二人の絶品レシピ」(長いな)、「二人は絶品コンビ」(なんかださい)、原題すっとばしていいなら「恋はスパイスの香り」にしたい(カレー料理人の話だから)。もはや「パーフェクト・マッチ」でいいんじゃないかな。でも日本語字幕化はされなさそうな予感。

Sunday, 16 April 2017

台北と風邪っぴき迷子

三日前から台湾に旅行に来ており、留学を終えて日本に帰ってからちょうど三年ぶりになるので、それはそれはとても楽しみにしていた旅行だった。ところが、出発の朝から身体に不穏な不快感があって、飛行機では悪寒まで。淡水の宿に到着してから友人が老街と夜市を連れて歩いてくれたのだが、食欲はそこそこあるものの、身体がやけにだるく頭が重い。結論から言うと、どうやら風邪、あるいは友人のインフルが移っていたようである。そしていま、台北のゲストハウスで部屋に閉じこもり熱が下がるのをただただ待っている。ああ、私の愛しい魯肉飯、豆花、牛肉麵、割包、珍珠奶茶...とにかく熱が下がらず歩いて回れないので、食べたいもの、懐かしい場所、行ってみたいと思ってた場所、どこにも行けていない、食べれていない。このまま帰国になるのは悔しいので今はとにかく寝る寝る寝る寝る。

しかしだ、心優しい友人に恵まれ、彼はなんとオススメの水餃子と酸辣湯をわざわざ宿まで買って持って来てくれると言う。他人太好了吧。どこにいても、親切な友人がいればこれほど心強いものはない。

朝よりも随分と身体が軽くなってきたので、少しずつ頭も働くようになってきた。これからのことについて考えようとしてみる。ベッドから起き上がり、窓の外をじっと見つめていると、ここが果たして住み慣れたアパートの一室なのか、それとも異国の仮住まいであるのか、感覚があやふやになってくる。今いる場所がそこまで自分とかけ離れた土地とは思えず、遠く離れた我が家の寝室を思い浮かべても、それほど恋しさがこみ上げない。身体は弱っているが、決してこの場所を拒絶してはいないし、むしろ当たり前のものとして受け入れている。

東京も台北も、自分にとってはあまり変わりない場所かもしれない。どこにいても、自分のやりたいこと、目的が定まっていれば動きは軽いし、何もなければ、ただ時間が過ぎて行くだけ。私に必要なのは、目的を定めることだろうか?

Friday, 10 February 2017

2月5日、横浜にて。

先日、友人夫婦の結婚式に参加した。

この二人が結婚式をするとは、少し予想外だったのだが、察するに両家ご両親からのプレッシャーがあったのだろう。でもそれだけでもないようで、新郎は最後の短いスピーチで、結婚式を準備する過程で新郎自身が見出した“結婚式をする理由”を語ってくれた。自分たち二人には、これから先どんな人生が待っているか分からない。幸多きことを望むは当然だが、二人のうちどちらかが―特に新郎が思うところでは自分自身が―もう一人を残して死んでしまうようなことがあるかもしれない。そうなってしまったときに、残された人を支えてくれる親しい友人たちの存在が、必要不可欠になるだろうと。だから、二人に何が起きたとしても、どうか末永く見守っていてほしいし、困ったときには、ここにいる皆とお互い救いの手を差し出しあいたいと、この場を借りて伝えたいのだと。

こうやって書いてみると、私の貧相な文章力ではその場でスピーチを聞いた時の感動が伝わり切らないと思うのだが、私は胸を打たれてしまい。気づいたら涙がちょちょぎれていた。そんなことを言いそうにない人だったから余計かもしれないが、私自身もそこで気づいたことがあったのだ。大切な友人の結婚式というのは、彼ら二人だけのものではないのだなということ。その結婚式は、私と彼らの結婚式でもあったのである。かなり語弊のある言い方をしてしまったのだが、もう、あの場にいた人たちは、みんなあの夫婦の人生に良くも悪くも巻き込まれているのだ。二人はあの場で夫婦の契りを交わし、私たちとあの二人は、友情の契りを交わした。そんな気がしたのだった。

損得勘定なしで付き合える友人というのは得難く、いれば幸福だ。普段から見返りを求めて何かをするわけではないが、その時々で、困っていれば助けたいと思うし、困っていたら助けてくれるような。そして時折、楽しいことを分かち合えるような。恐縮ながら、あの日私は、そんな友愛に満ちた関係を一つ結ぶことができたように思えて、改めて祝福と感動を覚えたのでした。

Friday, 13 January 2017

「引揚港」としての故郷の歴史に触れつつ

年末年始は相変わらず風のように過ぎ去った。大みそかの数日前からうちに泊まりに来ていた友人とちょっとした口喧嘩をして拗ねているうちに2017年と相成り、結局一年の振り返りや来年の抱負などといった話はせずじまい。そして世間とは逆行するかのように正月3日から実家に帰省し、6日まで居座る。

家族仲がいいわけではなく、実家の居心地もすこぶる悪いのであるが、今回はどうしても帰省しておきたい理由があった。戦後の引揚と故郷田辺の文里港に関する何かしらの資料を集めておきたかったのである。結論から言って、地元の図書館で調べられる以上のものは取り立てて何も得られなかった(当時のことを知る人を見つけて話を聞くなどまではできなかった)。しかし、市がまとめて出版していた元復員兵の回想記集や、引揚事業に関する資料が得られて、特に回想文の中には読み物としておもしろいものがあり、わざわざ飛行機に電車を乗り継いで帰った甲斐があった。

今でも地元の田辺市立図書館で購入できるのが、引揚50周年を記念してまとめられた『引揚港田辺』という書籍。すでに販売されてはいないが、図書館で複写できたのが40周年記念の際に編纂された『引揚港田辺(海外引揚四十周年記念)』。この中でも特に興味のあった台湾からの引揚者の回想文の部分と、そのほかに故郷の土地を目前にして引揚船内で起きた“リンチ”について詳細に描写していた奥村明氏の文章を複写申請した。あとで調べてみると、この奥村さんは『セレベス戦記』という自身の従軍記録を出版していた。どおりで、引揚記念書籍の中の回想記もこなれた文章で、まるで小説を読んでいるかのような心地がしたのだ。詳しい来歴は分からないが、戦前は物書きの筋の人であったりして?

回想記の多くが、上陸後の検疫でしらみ対策のDDTを「ぶっかけられた」ことや、田辺の地元民の温かい歓迎に涙を流したこと等々、どちらかというとほのぼのとしてしまうようなエピソードを徒然と書いてあるのに対して、奥村さんのは少し違っていた。同じように「祖国」を見ることのできた感慨のようなものや、帰ってこられなかった戦友たちを思う悔しみを語る一方で、敗戦してなお私欲に走る軍上層部や、兵士の任を解かれたはずの復員兵たちの間に影を落とす軍隊の悪質な構造を、冷静にまなざし、指摘しようとしている。以下、少し長いがリンチについての描写を引用。

「…しかし、平和で美しい紀伊半島を目前にした田辺港は、南方各地よりの復員船がひしめいており、下船は順番を待って、今日、明日は船中で過ごさなければならぬという。すぐ下船できると思っていた私たちはがっかりした。気ははやるばかりで、何ともしようがない。時間は錆びついたように長く、耐えがたく鬱血した気持であった。/そのあせりと無聊に、人心の亀裂が生じたのにちがいない。リンチ事件がおこったのは、その夜のことである。」

「テントのそとで、また、騒ぎが起こった。「岩田兵曹長! マカッサルへ上陸したときのこと、おぼえているか。よくも、おれたちをひどい目にあわしやがったな。貴様! この野郎」 罵声と殴打の音。……「ざまァみやがれ!」そんな捨てゼリフがきこえ、あとは静かになった。ふくろだたきにされた兵曹長が濡れた鉄板の上にのびている姿を想像し、(たぶん鬼兵曹長だったんだろう。相当恨まれていたらしいな)と、私は他人ごとのように考えていた。/遠くに近くに、ざわめきがきこえた。罵声、肉を打つ鈍いひびき、うめき声。――私は頭をもたげた。これはいけない。あちらでも、こちらでもリンチがはじまっている。中尉を皮切りに、リンチの連鎖反応をおこしたのか。私は関係ない。…」

筆者・奥村さんも少尉であったがために結局リンチの標的にされたのだが、この事件の原因は戦争中の軍隊における「私的制裁の悪習」とそれを暗黙裡に奨励する上層部や、下級者に強いられた上級者に対する絶対的服従精神の根拠である軍人勅諭にあると語る。

「戦争が終わり、命令系統の階級をなくしたかつての上官がドレイ的な境遇に耐えてきた下級兵士の報復をうけたのも、当然のことであろう。だが、一部扇動者の発作的なリンチ事件が、母国の山河を前に、燎原の火のごとくひろがる形勢は、なさけないことだ。それは爆発であり、狂気であり、無意味な破壊に通じるだけのものであった。わるいのは、権力におごって兵士たちをドレイあつかいした上官だけではない。国をあげての富国強兵の教育方法そのものに陥穽があった。前近代的な日本の体制そのもののありかたを、あらためて批判しなければならないであろう。私はすぎゆく暴風を待つかのように、じっと横たわっていた。両耳をふさいで、耐えていた。」

復員兵の身体に染み込んでいる暴力の記憶、それが、ふとしたことで爆発する。なんとなく、『仁義なき戦い』の冒頭で復員兵だった広能昌三らが広島のバラック立ち並ぶ闇市で殴り合うシーンが連想された。暴力の温床、戦前と戦後の連続性。

その後、一夜明けてリンチ騒ぎなどなかったかのように皆ケロッとした顔で肩を並べて上陸を喜んだそうだ。さらに、無事に復員はすんだが、上陸時に軍用物として運び出すよう命令されたものの中にセレベス(セレベスは植民時時代の呼び名で、現在のインドネシア・スラウェシ島。)から積み込んだコーヒー豆の詰められた袋があり、それがなんと闇市で売りさばかれ、船長が取り調べを受けることになったとか。これに関して奥村氏、「悪党の片棒をかつがされていた」と言って怒りをあらわにしている。

上述のリンチについては、同回想文集の中で竹本節三氏も書いている。竹本さんの回想では、上陸後も文里港付近の松林の陰で将校たちが被害を受けたようである。

「下級の兵たちは、将校にたいして、根の深い宿怨をもっていた。…ニューギニアで、生きるか死ぬかの戦時生活をしていたときのことに関わってくる。将校とくに上級将校たちが軍制上の権限を、無拘束な私権に転化させて、いかに下級兵を犠牲にして恬然としていたか、そんな事例が枚挙にいとまないほど多かったことを、私はよく知っている。…乗船中に、以前から心中に鬱屈していたこの問題が、メタンガスが爆発的な張力をつよめてくるように、急に膨張してきた。上陸し、解散してしまえば、この問題を解決すべき機会はまったくなくなってしまう。…略」
ネットでちらっと検索してもこの類の話は複数ヒットするので、復員船にめずらしいことではなかったのだろうが、これまで戦争関連の歴史書物、小説とか手記とかあまり読んでこなかったので、衝撃的な話だった。このほかにもまだ資料を読み込めていないので、時間を見つけてまとめようと思う。

複写申請するとき、普段はこんなド田舎の図書館で古い書籍の複写を何十枚も頼まれることはないのだろうが、一行、また一行、さらには二枚目の複写申請用紙へと必要なページ番号を書き入れていく私の様子を、司書の方が不思議そうに見ていることに気が付いた。複写を終えて私に印刷物を手渡してくれたのちも、その本にわざわざ東京から訪れて複写するほど価値のあることが書かれているのかと気になったのだろう、同僚と思しき司書さんと二人してページをめくりめくりひそひそと話をしていた。京都の舞鶴や佐世保などとくると引揚港として有名なのだろうが、田辺は意外と盲点であるようだ。地元の人ですら、その記憶をとどめている人も、歴史として知っている人も少ないように思う。

で、私はその貴重な?回想記集と当時の引揚援護局に関する資料を手に入れたのだが、手に入れてそれを読む以上のことができておらず、ここからなにか発展させることができるかどうかは不明だ。恋人の祖母は戦前台湾に移住しており、戦後の引揚時に帰り着いたのが田辺の文里港であったのだが、彼女の帰国に直接関わるような記録は見つけられなかった。昭和21年2月20日から6月24日までの約5カ月の間に輸送船63隻が入港したとのことで、そのうちどの船に恋人の祖母が乗っていたのかまでは残念ながら調べがつかない。昔の文里港付近には記念碑が建てられてあり、今回は見に行けなかったのが心残り。

引揚50周年の書籍が平成8年に出版されたのち、引揚60周年であるはずの平成18年(2006年)には何もなかったのだろうか。来年になれば引揚70周年だ。当時のことを語れる人はますますいなくなる。感傷的な気持ちになってしまうのは避けがたい。

今年もどんな一年になるものか、さっぱり見当がつかないが、好奇心を忘れず、気になることをおざなりにせず調べ、学びの多い一年にできればと思う次第です。なんでもメモを取る癖を。そして研究者気取りもたまには役に立つことがあるだろうし、コツコツといろんな資料を集めよう。